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好きな自転車をもっと好きにしてくれた、栄光の選手たち

〜いい夢みたよ、ありがとう〜


vol.6 山島(宇田) 由香選手

彼女がいたら変わっていたかな、と思うことがあります。
夢を見せてくれた選手を紹介しようと、真っ先に彼女を思いました。
今から10数年前。
山島(宇田)由香さんという、ロードレース女子選手がいました。
急性骨髄性白血病で約1年の闘病の末、28歳の若さでした。
当時私もレースに出ていて、何もできなかった。
レースに出ることしかないと思っていた、あの時、
女子選手が彼女の分まで走ろうと士気が上がり、結束を強くした。
それほど、私たちの心に残してくれたものがあって、
まだ先に何かあるかもしれないという、ほんの途中だった。

私の記憶や雑誌の記事などを読んでいた中から。
(正確でないところもあるかもしれない、だいたいで)

全国展開している自転車屋さんで働きながら自転車に乗り、速くなっていった。
お店のスタッフさんと練習をして、自転車レースへ出るように。
ヒルクライム大会に出場すると、クライマーの力を発揮し、頭角が現れてきました。
当時、実業団レースにおいて、男子は実力別に3クラスに分かれていて、
女子は1クラス。
女子の実力差があり過ぎて、男子の2番目のクラスで女子選手が走れる、
BR-2女子というカテゴリーができ、
そこで彼女は男子選手と混ざりながら走っていた。
ここまででも短期間で掛け上がり、彗星ごとく注目を浴びる選手でした。

トップクラスで走る実力がつき全日本で結果を出せるようになると、
日本代表として海外の国際レースへ出場するようになります。
アジア選では当時のチャンプ沖選手が「行け!山島!」と声を掛けると、
アタックした。
解説すると、沖選手に他国の選手達がマークしているところを、
山島選手に行かせ、それもまた、足がなければかけられない。
アシストの役目だった彼女が、エースに代ってゴールを目指す瞬間です。

沖選手の引退後、山島選手と萩原選手のツートップでアジア圏で
最強な日本チームになるのか、、、と思っていた。
それと、働いていた自転車屋さんが、女子チームを結成した。
レースで強くなりたい女子選手の道を作ってくれたのだ。
それから結婚して、安心してレースに取り組める、そんな矢先だった。

同時期にロードレースを駆け抜けて、たくさんの夢を見せてくれました。
一人の女子選手の成果で、
こんなにも周りや環境が変わっていった事実を伝えたかった。
そして今も、勝手ながら
私が選んだ女子選手たちの日本代表ドリームチームを夢見るのでした。

-2021.6.3-



vol.5 森 幸春さん

「師匠」といえば森さん、「森さん」といえば師匠。
ロード乗り、自転車関係者では、誰もが「森師匠」と呼び親しんでいました。
現在、日本のロードレースシーンでトップチーム監督の方々が、
現役の頃、憧れた選手といった世代でしょうか。
私はレースでの活躍を情報からしか知りません。
「引退という言葉はない」とおっしゃっていたように思います。
生涯現役でいつでもレースに出れるくらい走っておられたようでした。
走り方やフォームについての情報がたくさんある中で、
森さんはこう言っていた、というのが自分にとって納得のいくことでした。

はじめてお会いしたのは、自転車雑誌の取材でご一緒させてもらった時でした。
K編集長
「森さん、ダブルレバーからデュアルコントロールレバーにしたんですか!」
森さん
「デュアルレバーって、いいね。ダンシングしながらシフトチェンジできるんだね」
2006年頃だったと思います。
最新機材の話はありませんでした。
「思いっきり走っている時、機材がどうのとか、ギアが何段とか、ないでしょ」
フォームが重要なんだと、私が独立して間もない頃だったから、インプットされました。
「屋号のロゴをペイントしたフレームに乗っている」
「ウェアを売っている」共通していたことが、
当時、巡り合わせを感じていました。

その年明け、正月3日にウチの電話が鳴りました。
「森です」
「えー!あの森さんですか?」
私がその取材でお世話になったので年賀状を出して、電話をいただきました。
「それでね、あのハンドルの高さは、ちょっと高いポジションでね、、、、、、」〜30分くらい。
直に教えていただけたことを光栄に思います。

本格的にレース出場をする前、選手でもなんでもない私に、
フォームについて教えてくださった、
そのことこそが私の使命なんだとじんわりと染み込んでいたように思います。

今日は流すくらいでいいか、と走りに行くと、
「タカシマさん、練習コースには必ず登りを入れなさい」
と助言がフッと思い出される。
そうだと思い直し、コースを変えていたのでした。

-2021.5.29-


vol.4 ヤン・ウルリッヒ

ドイツのエリート教育からトップクラスへ輝いた、
オールラウンダー、ヤン・ウルリッヒ。
走っていた時代は、パンターニがピークの頃に若い選手といったところで、
二人が競って、ウルリッヒが先頭を譲らない走りは青年期の意地っ張りに映った。
壮年期のツールでは、いつも2位という印象は拭えませんが、
ツール・ド・フランスの前に、ツール・ド・スイスを走ってからのツール入りで、
過酷なレース続きに、対するライバルはツールを狙っての出場という、
同じ条件なのかと合点がいかなかった。

引退してから、その姿はあまり見られなかったが、
2009年のユーロバイクで、彼のオリジナルフレームが発表された。
サインを求める人がやまず、気さくに応じていました。

-2021.5.26-


ドイツの公衆電話。
受話器がピンクで、かわいい。

二つ並ぶと、もっとかわいい。
彼のチーム、ドイツテレコムカラー。

記念撮影


バイクについてインタビュー


ヤン・ウルリッヒバイク


サイン会


少年が熱心に質問していた


vol.3 マリオ・チッポリーニ

ロードレース界きっての伊達男、マリオ・チッポリーニ。
パンターニと同じ時代を駆け抜けた、スプリンター。
パンターニと同じイタリア人ですが、こうも違うし、
イタリア人男性って、こういうイメージと思わせる風貌と
俳優並みの人気と名声を持っている。

パンターニの動画から、つられて見続けると当時のツールのレースシーンがある。
チッポリーニが両手を上げてゴールする姿は印象的でした。
レース序盤、平地のステージでは、その勝利する姿を何度も見るが、
山岳コースへ入る前に体調不良でレースを降りるという、
お決まりのストーリーが今でもおかしい。
全身に筋肉のイラストを描いたスキンジャージやゼブラ模様のジャージなど、
ファンサービス?注目を浴びるため?のコスチュームも話題でした。
もちろんレースでは指定のチームジャージを着なければならない規則なので、
罰金を払ってでもやっていたとのこと。

私が2010年のユーロバイクへ行った時、彼のプロデュースフレームの
ブースへ行ったら、本人がいてビックリしました。
シャツにジーンズ姿ですが、ハデで強いオーラがありました。

チッポリーニバイクのプロモーション動画がありましたので、紹介します。

https://www.youtube.com/watch?v=5lKRxk7uq8U

-2021.5.21-


動画です


vol.2 マルコ・パンターニ

1990年代〜活躍していたクライマーヒーロー、マルコ・パンターニ。
'98年ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスのダブルツールを達成している。
語ろうとなれば、熱狂なファンが大勢いるでしょう。
彼の走りを今でも目に焼きついている。
ダンシングでグングンとスピードが落ちずに登る姿。
力強く、どこまでも強いと思わせてくれた。
反面、神経質なところがあり、
サイクルパンツのパッドを取ってしまうとか、
もしレースで補給のボトルが取れなかったらと想定して、
水を持たないで練習するとか、、、ファンの間で話していました。

はじめて観たロードレースが、2000年ヨーロッパ自転車の旅で観たツール・ド・フランス。
フランスでロードレースといえば、お祭り騒ぎで、
町では「ツールがここを通過するの」とデコレーションしたり、
キャンピングカーで何日も前から滞在していたり、
プロトンが通るのを、今か今かと楽しんで過ごしている。
スイスとフランスの境目辺りの宿から山の頂上まで歩き、彼を待った。

キャラバンカーからグッズが投げられて、飛びついてキャッチした。
続いて、いよいよ選手たちが登ってくる。
下の方から声援が上がってきた。
先頭集団に、その姿はあるだろうと思っていた。
、、、登りでもスピードはあるから、見落としたかな、、、?
トップからそれはもう程遠い位置で、生気なくアシストと一緒に走り抜けた。

私は、はじめてレースを観た興奮で、宿へ戻って連泊の予定を変更し、
翌朝、スイスの町のスタート地点へ行った。
スタート間もない平地ダンゴ状態のプロトンを見送って、
コースをカットして、一日中レースを追っかけた。
「ロードレースをもっと見たい...」
その気持ちは日本へ戻っても続いていた。
あの時見たパンターニは、本当の姿じゃない。
また、あのグングンと登っていく姿が見たい。
けど、いない。走っていないのか、次の年も、その次も。

だいぶ後になって調べたら、私が見たあのステージの翌日にレースを降りていた。
今回また本を読み返し、この時の状況って、どうだったのか。
3回くらい読んだと思うけど、また同じところで泣いてしまった。
2000年前後は、ドーピング問題でレースシーンは大きく揺れに揺れ、
選手同士の関係性も複雑だった。

きっと、どこかのチームスタッフやレースゲストとして見るのだろう、
緊張がとけた笑顔を見せてくれるのであろう、いつか、と期待していた。
今、時代が移り変わろうとしている中、彼の名前を刻みたかった。
あの時、彼の最後のツールを見た者として。


参考本
マルコ・パンター二 海賊の生と死 べッぺ・コンティ 工藤知子訳

映画予告の動画があったので、紹介します。
https://www.youtube.com/watch?v=385DCB91LiA

-2021.5.14-




vol.1 ゲーリー・フィッシャー

マウンテンバイクの第一人者、ゲーリー・フィッシャー。
私がSCOTTの代理店で働いていた時、
雑誌で知ったのだっただろうか、その時はミーハー志向で見ていた。
彼がアメリカ・ヒッピー時代、ロングヘアだった若い頃、
ロードレース出場の際に長髪はダメだと言われ、
ロード競技をあきらめ、野山を駆け巡り、
マウンテンバイクを創り出したと覚えている。
その後も29インチホイールのMTBを考案したり当時は驚いたけど、
今ではフツーになっている。
あっという間の広がりを、彼は「スマイル」と言っていた。

私が独立して行ったユーロバイクショーの帰り道。
フェリーに乗り、後ろで大きなカバンをおろす音で振り返ると、
ゲーリーが立っていた!
あまりにビックリして、モジモジしてしまった。
対岸に着き電車に乗り換えた時、隣に座ってくれておしゃべりをした。
今でもその風景が夢のよう。
駅に着いてバイバイしてくれた。

別の年に日本のショーに来るとわかり、
サコッシュを縫って、会いに行った。
握手会の時間に人が並び、ドキドキして待った。
「これ、手作りのサコッシュです。プレゼントです」と言うと、
「えーッ!コレ、ボクにくれるの!?」
と、とても喜んでくれた。

私がやってきたこと、理想を思い描いていた中で、
時々専門紙にあったインタビューを読み、
彼もそう思うのか、そう考えているんだ、とわかり、
歩いてきた道の通過点を、合っているかなと確かめていた。
自転車が楽しい、でいいと、
そのままでいいんだよと、見せてくれた私の自転車スター。

自転車情報サイト「サイクリスト」にインタビューがあったので紹介します。
https://cyclist.sanspo.com/163166

-2021.5.12-


ユーロバイクで




「えーッ!コレ、ボクにくれるの!?」